今日のピックアップNYT記事:‘Everyone Around Me Thinks That I’m Crazy for Wanting to Come Back’
俺的記事まとめ
昨今の移民に対する反感は、あまりにも「当たり前」になってしまい、人間の本性に基づいた普遍的な感情なのかと思わせる。英国のEU離脱(ブレグジット)そしてアメリカのトランプ政権誕生以降、移民への敵意が政治の中心的テーマとなってきた。その引き金となったのは、2015年のシリア内戦とヨーロッパへの難民流出だろう。
トルコの海岸に打ち上げられた2歳のシリア難民アラン・クルディの遺体写真は世界に衝撃を与え、欧州のリーダーたちは難民に門戸を開いた。しかし国々は次第に寛容から背を向け、排除へと舵を切った。
アサド政権が崩壊し、シリアに民主化の兆しが見えたことで、数十万人のシリア人が帰国を始めた。隣国レバノンに亡命していたモハメド・ユーネスもその一人で、劣悪な環境の中、家族と引き離されながら働き続け、アサド失脚後すぐに帰国。家も職も失ったが、再出発を夢見ている。
ドイツに亡命していた活動家ワファ・ムスタファも帰国した。父はアサド政権に拉致され行方不明のまま。家族にはシリアへの帰国を「狂気の沙汰」と反対されるが、ベルリンにとどまるつもりはない。故郷に帰ることが、尊厳を取り戻す生き方だと感じている。
建築学者アマール・アズーズも英国で成功を収めながら、故郷を訪れた。瓦礫の中で人々が生活を再建する姿に、「ここには言葉にできないほどの温かさがある」と語る。彼もまた、「かつて帰れなかった祖国」と「受け入れてもらえない第二の国」の間で引き裂かれていたが、今は「両方を自分の故郷と呼びたい」と言う。
移民受け入れ反対の心理には、「貧困や暴力から逃れてきた人々が、自分たちの砦に入ってきたら困る」という恐れがある。それは、人間の防衛本能に根ざした自然な感情である一方で、共感や歴史の記憶を忘れた社会の危うさも示している。
現代人は、自由を奪われ拘束されることが最大の罰だと思いがちだが、歴史的にみれば、住み慣れた故郷を追われることこそ、最大の苦難だった。
移民の流れは社会に混乱をもたらすが、それと同時に創造性と活力の源でもある。かつて戦後世界が築いた国際秩序と難民保護の仕組みは今や機能不全に陥り、シリア、ガザ、ウクライナなどで生まれた新たな移民は、西側諸国にとって頭の痛い身近な問題となった。要塞のように閉じることなく、共に新しい「ホーム」を築く可能性に目を向けるべきではないか。
俺的コメント
移民に対する悪口として一番よく使われるやつが、「自分の国に帰れ」。今日の記事は「よろこんで!」と自分の国に帰った人々の話。
各国の移民排斥トレンドの出発地点となった、シリア難民幼児の死体が浜に打ち上げられた写真、よく覚えています。
2015年といえば、カナダではトルドーが首相になった年。空港にシリア難民を迎えに行ったジャスティンを見て、カナダって素晴らしい国!!と誇りに思った国民は多かったはず。しかしカナダ国民は、たとえは悪いが「自分で世話できない捨て猫を拾ってくるな」という教えを理解する感じで、難民に門戸を開く難しさを学ぶのであった…
故郷に住めなくなることは、監禁され自由を奪われることよりも辛い、という一節を、現代人はよーく味わうべき。移民排斥の右翼さんたちは、自分が故郷を追われるリスクなど想像したこともないのかもしれない。しかし、紛争地に住んでいなくても、誰もが難民になる可能性はあります。一番ありそうなシナリオは、気候変動による大災害 -> 故郷に住めなくなる、というやつでしょう。
「難民かわいそう!!保護してあげなきゃ人間じゃない!!」 ->「そんな簡単な話ではなかった。ごめん、国内の問題が先」 ->「…とか言っているうちに自分が難民に!!」
自分が捨て猫になる日を想像してみて。けして、非現実的な話ではありません。
