今日のピックアップNYT記事:How a German Thinker Explains MAGA Morality
俺的記事まとめ
「力を崇拝する者は、同情と慈悲を罪とする。」これはある神父の言葉だが、アメリカという国の現状をよく表している。なぜアメリカ人は、こと政治に関する限り、敵に情けをかけるという「徳」を放棄し、憎悪に耽溺するようになってしまったのか。ヒトラー政権下の政治学者、カール・シュミットの思想の中に、答えを探してみよう。
倫理の世界では、最も重要な区別は「善か悪か」である。美学においては「美しいか醜いか」。経済でいえば「儲かるか儲からないか」。シュミットによると、政治組織の存続においては「敵か味方か」が究極の区別であるという。敵か味方かで人を判断するのは人間の本質であり、敵に情けをかけることは、政治的組織にとって破壊的な行為となる、とシュミット。
シュミットの思想は、共和党員たちをを見るとよくわかる。たとえイデオロギーが「保守」で一致していようと、トランプに反対する党員は憎悪の対象となる。味方への忠誠心はイデオロギーよりも重要なのだ。
一方、リベラリズムは、歴史的に反目しあってきた人間同士の平和的共存を前提としている。「敵か味方か」の区別が人間の真実の姿なら、民主主義社会は存在し得ないということになる。
アメリカの建国者たちは、これをよく理解していた。人間が天使なら政府はいらない。天使が統治を行うなら政府に抑制機構はいらない。憲法で権力に歯止めをかけ、丁寧に抑制均衡(チェック&バランス)機構を組み込んでも、統治を行う人間に徳がなければ、制度は適切に機能しないと彼らは考えていた。
建国の父たちに、さまざまな欠点はあった。しかし彼らは倫理を重視し、より良い人間であろうと努力していた。敵に情けをかければ、自分が敗者となったときにも尊厳をもって扱われる。どのような状況においても、人権は尊重されなければならない。そのような社会では、「完全なる勝利」も「完全なる敗北」もない。
これはシュミットの思想とは対照的である。「敵か味方か」がすべての世界において、最高の徳は味方のために戦うことであり、敵をリスペクトすることは倫理にもとる行為とされる。これはMAGAだけでなく、極左のアクティビストたちも同様である。
人間の下等な本性である残忍さが、味方に勝利をもたらすのならそれで良しとする、徳のない社会。イザヤ書に「悪を呼んで善というものは災いなり、善を呼んで悪というものは災いなり」とあるが、まさにその通り。「敵と味方の政治」が、家族を、コミュニティを引き裂き、国としての倫理観を変えてしまう現代は、「我々すべてが災いなり」ということなのか。暗澹とした思いに襲われる。
俺的コメント
アメリカは今、1930年代のナチスドイツ状態だそうです。建国の父たちが作った権力の「抑制と均衡」メカニズムをトランプとマスクが次々に外して行く様子を見て、こいつらをどう「尊重」しろと?という話ではありますが、トランプは権力さえ持たせなければ、ただの可愛いボケ老人だと思うことにします。
なにかと悪口の対象になる建国の父さんたちも、良き人間であろう努力していたことが、この記事でわかりました。不肖の息子たちが合衆国憲法を解体する勢いでご心配のことと思います。しかし今時の「憎悪に耽溺する人々」に、汝の敵を愛せよ、人徳を持てと説教しても無駄でしょう。いったいどんな方法なら伝わるのか。
可能性があるとしたら、アートでしょうか?誰かMAGAと極左が愛し合う映画とか作ってくれないかなあ?敵同士が恋に落ちる話は、昔からよくあるじゃないですか。ロマコメ、大河ドラマ、SF、アクション、ありとあらゆるジャンルでMAGAと極左をカップリングする。人類愛に訴える大衆芸術にこそ、「敵と味方」の呪縛を破る力があるかもしれない。必ず最後に愛は勝つ、と。
