今日のピックアップNYT記事:Who Gets to Kill in Self-Defense?
俺的記事まとめ
現在65歳のアニタ・フォードは、夫を殺害した罪で1984年に終身刑の判決を受けた。些細な喧嘩から始まった夫の暴力が次第にエスカレートし、怪我を負わされるようになった。夫は対外的には巧妙にDVの事実を隠し、警察は「話し合って解決して」と頼りにならない。危害は子供にも及ぶようになり、ついに子供を連れて家出した。しかし夫に居場所を突き止められ、子供たちを殺すと脅された。実兄に相談し、共謀して夫を殺害した。44歳になるフォードの娘は、「母は私を父の虐待から守り、命を救ってくれた」と述べている。
暴力事件における行動を律する法的立場として、「退避義務」と「正当防衛」がある。暴力をエスカレートさせず、その場から立ち去るべし 、とする立場が「退避義務」である。対照的に、退避義務を「臆病を法律的に認めるもの」と批判し、反撃を妥当とする考え方が「正当防衛」である。怯懦を否定する立場から生まれた正当防衛の考え方は、男性対男性の暴力を前提としている。
男性目線で定義された正当防衛の概念を、男性対女性の暴力に適用するのは妥当なのか。正当防衛が成立する条件として、事態の切迫性があげられる。例えば女性が首を絞められた際、たまたま手が届く場所にあったナイフを掴んで反撃するのは正当防衛と認められる。しかしDV加害者が留守の間に被害者が武器を用意し、隙を狙って攻撃することは「計画的犯行」とみなされ、正当防衛は認められない。
アニタ・フォードのようにDV加害者を殺害した女性たちへの聞き取り調査からは、彼女らがDVにより命の危険に晒される「切迫した状況」にあったことがわかる。しかし彼女らを裁く法律は、計画的であったからには切迫性は認められないと判断する。男性と男性が対峙する状況とは違い、女性が男性に力で反撃するには、相手の油断をつくための計画性が必要となることを、司法は認識しない。
パートナーから恒常的に暴力を受けたり、行動を支配されるDV被害者は、暴力的な状況から絶対に逃げられない、という無力感を学んでしまう。この「バタードウーマンシンドローム(被虐待症候群)」という現象が広く知られるようになり、DV加害者殺人のケースで虐待の事実が斟酌されるようになってきてはいる。ただし、虐待の事実が「殺人の動機」として検察側に有利な証拠とみなされることもある。
カナダの法律では、「誘拐され拘束された人間が、(隙を狙って)誘拐犯を攻撃するのは正当防衛」というロジックがDV被害者のケースにも認められ、計画的犯行から正当防衛を除外していない。アメリカの法律では、虐待は減刑の根拠として考慮されるに過ぎず、正当防衛が適用されるべき状況への想像力の無さを表している。
俺的コメント
アメリカの法律が考える正当防衛は、「やられたらやりかえせ」的なマッチョ同士のぶつかりを前提にしてるというお話。やられてもやりかえさず、その場を収める「退避義務」が「臆病を法的に認めること」という解釈にはびっくり仰天じゃないですか?そんなヤクザな視点で作られた法律のせいで、DV被害者には正当防衛が認められず、仮釈放なしの終身刑という極刑が適用されていたと。暴力夫を殺す画策してる暇があったなら逃げられたはず、という検察側の言い分は、レイプの被害者に対する「抵抗しなかったんならレイプじゃないでしょ」というアレと一緒だ。
実はみんながよく知っている「マッチョの正体は臆病者である」という事実。銃器訓練の記事で、人を撃ってしまったら「撃つしか選択がなかったと主張せよ」と弁護士が指導する話がありました。つまり正当防衛という概念は、切迫性の捏造、臆病者の過剰防衛の正当化にも使われるのでございます。
今月ジョージア州の高校で乱射事件を起こした14歳は、学校でいじめられていたそうです。この子にクリスマスプレゼントとしてアサルトライフル(!!)を与えた父親も罪に問われる模様。ドナルド・トランプは14歳犯人を「病んで狂った怪物」と呼んだそうですが、病んで狂っているのは、「やられたらやりかえせ」の掟を変えようとしない旧世界の亡霊たちでありましょう。14歳犯人もまた子供に銃を持たせる社会の犠牲者なりよ。
