今日のピックアップNYT記事:At the Paris Olympics, Sex Testing Will Be in Full Force. How Did We Get Here?
俺的記事まとめ
1905年、マーク・ウェストン氏はイギリスのプリマスに生まれ、女性として育てられた。女子砲丸投げの選手として国内トップの成績を収め、1936年に陸上競技を引退した後に性転換手術を受けた。「やっと本来の姿になれた」というウェストン氏を取材した新聞記事は、大きな話題を呼んだ。そもそも性転換が可能であるという事実に人々は驚き、ジェンダーとエリートスポーツをめぐる昨今の議論とは対照的に、1930年代の報道と反響には純粋な好奇心と共感が認められた。
しかしウェストン氏のケースは、陸上競技連盟にとっては、憂うべき事態となった。性転換は、競技における男子・女子というカテゴリーに抜け穴を作ることになるのでは?これをきっかけに、エリートスポーツにおける性別確認の試みが始まった。何をもって「女子」と分類するのか、客観的な定義を確立できないまま、トランスジェンダーや性分化疾患のアスリートがトップレベルの競争から締め出されるという、現在の残念な状況に至っている。
性別確認テストは、公正さの名の下に行われるが、実際には女子スポーツで「生物学的に有利な特徴」を持つ選手を排除するためのものだ、と反対派は主張する。排除されるグループには、性転換治療を完了していても女子として競技することが認められないトランスジェンダー女性、一般的な女性よりもテストステロン値が高い女性などが含まれる。
スポーツにおける性別確認テストは、人間の体に発現するバリエーションを認識しない。1930年代の時点で、医学は人間の性がオス・メスの2変数ではなく、スペクトラムであることを十分に理解していた。染色体の数にしろ内外生殖器にしろ、性別を決定づける単一の生物学的特徴というものは存在しない。スポーツ団体が考える「女子」と「男子」の定義は、「見ればわかるだろう」という恣意的なものにすぎない。生物学的な多様性を考慮せずに、アスリートの競技する権利を奪う既存のシステムは、抜本的に改革する必要がある。
IOCは、オリンピック全体に適用されるルールの制定は行っていない。理念として「性自認や性の多様性を差別しない公平で包摂的なアプローチ」を謳っているが、参加資格の基準作りは各競技団体に丸投げしており、包摂の理念に合致するルールを設けている団体は少ない。
世界陸連は、トランスジェンダーおよび性分化疾患の女性の参加を制限する規則を変えるつもりはないという。パリで開催される今年のオリンピックでは、これまでになく厳しい性別検査が行われるだろう。ウェストン氏の性転換を興味深い発見と捉えた世論のように、1936年のスポーツ団体にも人間の多様性を素直に受け入れる姿勢があったなら、「自分にとって一番自然な体」での競技参加を望むアスリートが、一世紀近くも差別に苦しむことはなかっただろう。
俺的コメント
五輪代表選考レースへの参加を世界水連に拒否されたトランス水泳選手、リア・トーマスに関する右翼記事をうっかり踏んでしまい、あまりのヘイトに気分が悪くなりました。「男子としては勝てないから女子のフリをする嘘つき野郎」という罵詈雑言がこれでもかと並び、そこだけ見るとゲンナリしますが、女子のレースに「体が男子」の人に出てほしくないというアスリートの主張は心情的に理解できます。これが女子サッカーやら女子アイスホッケーならば、「本当に女性ですか?」みたいな人がプレイしているのは当たり前って印象ですけど、陸上や水泳は事情が違うのでしょう。
ランナーのキャスター・セメンヤは、外性器が女性だけど子宮がなくて精巣があると聞いて、「この人は、その体で女子としてメダルを取って嬉しいのだろうか」と思ったものです。しかし彼女のエッセイを読み、俺の疑問は「半魚人マイケル・フェルプスが人間としてメダルを取って嬉しいのだろうか」くらいの愚問であると思い至りました。リア・トーマスのライバルには、「勝つよりもすべての人間の尊厳を尊重する方が大切」という人も多く、意識の高さに感動します。しかし、その高邁な理想を万人に理解しろというのは無理がありそう。トランスジェンダーアスリートの中には、「大多数が公平と認める場面で勝つのでなければ意味がない」と考える人もいて、目指すべきはそこじゃないかと思ったわ。男子・女子の既存枠に当てはまらないアスリートに対して、大多数が「これならオッケー」と認められるルールってなんだろう。とりあえず「ノンバイナリー部門」「オープンカテゴリー」がある大会は頑張ってますねと思う。
アスリートの性の多様性を尊重しましょう、というIOCの理想について述べた日本語の文書は、ここで読めます。あまりにも現状とかけ離れていて泣けてきます。
