今日のピックアップNYT記事:Why the World Still Needs Immanuel Kant
俺的記事まとめ
ドイツは今年、哲学者イマヌエル・カントの生誕から300年目を迎える。ヨーロッパでは、文化的偉人の節目となる生誕を一年かけて祝う習慣がある。今世紀にはいってから、「アインシュタインの年」「ベートーベンの年」「ルターの年」「マルクスの年」などがあり、政府は多大な予算をかけて生誕記念イベントを開催するのが通例だ。
カントの生誕300年祭の準備は何年も前から始まっており、今月予定通りに開催される。しかしここ数年の時代精神の変化とともに、カントの生誕祝いを疑問視する空気も広がっている。
欧州列強の植民地政策時代につながる古臭い啓蒙思想の重鎮を、なぜ今さら持ち上げるのか。
カント自身の言葉を振り返ると、そうした疑問にも頷けるものがある。若き日のカントの聡明さに気づいた牧師が高等教育を勧めなかったら、カントは馬具職人として一生を終えるはずだった。学問を愛するようになったカントは、「自分は無知な大衆を軽蔑していたが、ルソーがその間違いを正してくれた」という。カントはエリート主義を捨て、こう宣言する。「自分は哲学をもって人権を救済する。そうしなければ、自分は労働者にも劣る人間になる。」
カントよ、お前は何様だ?と言いたくなる。彼の著作を拾い読みしても、人間の思考の分類が延々と続き、なぜ人権につながるのかさっぱりわからないだろう。
カント以前、哲学は合理主義と経験主義に分かれ、人間の知識は感覚からくるのか、それとも理性からくるのか議論が交わされていた。人間は真理を知り得るのか?カントは、できないと結論づけた。
これだけでは、なぜ詩人のハイネが、カントはロベスピエールよりも革命的だと評した理由がよくわからない。一般人は、テーブルだの椅子だのが、「実存」なのか考えたりしない。しかし、一般人も、「自由」や「正義」が幻想にすぎないのではないか、とは考えることがある。カントの目標は、自由や正義が幻想ではないと示すことだった。
カントは「実践理性批判」の中で、この命題の解決を試みている。人間は、売春宿の前を通るたびに誘惑にかられる。しかし、売春宿に入ると縛り首になる仕組みがあれば、人間は誘惑に打ち勝つことができる。命が危険に晒されるとなれば、さまざまな誘惑が消滅するのである。しかし人間はまた、命の危険よりも倫理を重んじることができる。無実の人間を糾弾しなければ殺すと脅されても、倫理にもとる行為を躊躇する精神が人間にはある。
快楽ではなく正義が人間を動かし得るということは、人間の自由が「ラディカル」であることを示している。人間は世界に支配されるのではなく、世界を支配したいと願う。人間は自然の一部として生まれ死ぬが、動物的な世界を超える時にこそ、生きている実感が得られる。与えられた世界に甘んじないこと、それが人間であるということだ。
カントの形而上学の核にあるのは、あるがままの世界と、あるべき世界の違いである。人間はパンとサーカス(現代なら、高級チョコとiPhone最新モデル)がもたらす快楽の前に無力である、という考えをカントは否定する。
人間が自由と正義を求める限り、カントの主張には政治的な結果がつきまとう。たしかに、カントの発言の中には、21世紀の我々の耳には「不適切にもほどがある」と思わせるものがある。しかし、カントの形而上学が、我々に人種差別や性差別と戦う武器を提供してくれたことを忘れてはならない。
18世紀の啓蒙思想を批判する立場は、啓蒙思想が「ヨーロッパ中心主義」という概念を生み出し、ヨーロッパ的な観点の外側から世界を見始めたことを忘れがちだ。モンテスキューはフランス社会の批判を架空のペルシア人に語らせ、ラホンタンはアメリカ原住民との対話を通じてヨーロッパ政治を批判している。
倫理を考える際には、文化的差異を超え全ての人間の尊厳を認識すべきであり、そのために「理性」が必要になるとカントは主張する。(白人男性の)理性は支配の道具であるというトレンディな見方とは裏腹に、カントは理性を人間解放のツールと認識していたのである。
カントに代表される「理性の時代」は、奴隷制と植民地主義の時代でもあった。ドイツでは、啓蒙思想は二律背反を抱えていたという見方が一般的だ。では現在の進歩的なインテリが世界中で勝利をおさめているかといえば、決してそうではない。
人種差別や性差別は普遍主義と相反する。カント自身が普遍主義を実践できていなかったからといって、カントの普遍主義を全否定すべきではないだろう。「普遍的な人権」という概念の問題は、それが西洋に起源を持つということではない。問題は、西洋以外の国で実現されなかったということだ。我々は、啓蒙思想に学び、西洋以外の視点にも目を向けるべきだろう。
俺的コメント
すみません、文中「不適切にもほどがある」は、たまたま配信で見たばかりだったので、使わせてもらいました。クドカンもカントも根底には人間愛ということですよ!(乱暴なまとめで本当にすみません…)
俺は人文系の大学に行ったので、著名な思想家の名前だけは知っているんですが、実際に哲学書を読んだことはありません。「別冊宝島:わかりたいあなたのための現代思想」で思想史の流れを把握してただけ。ちなみに手元にあるのは1994年版ですが、形而上学批判の歴史から始まっていて、カントはすでに眼中になかった。カナダの留学先で担当教官に「別冊宝島」を見せたらえらく感動してたっけね。内容もだけど、こんな本が定価1000円で売られているという事実に。
その教官いわく「哲学は自分の主張を通すための武器である」だそうで、俺が北米の大学で目撃したのは、つまりそういうことでした、レイシズムやセクシズムとの戦いこそ人文学生の本分であると。もちろん戦い自体は良いのです。しかし昨今の大学キャンパスにおける過激な学生運動のニュースを耳にするにつけ、「なんか違う」感が湧いてきます。なぜだろう。無知蒙昧な大衆を軽蔑したカントを軽蔑する現代のインテリも、カントと同じく上から目線でカントを見ているというか(ややこしいな)。現代思想の歴史とは、西洋的「上から目線」の反省の歴史だったはずが、反省のない上から目線に逆戻りしつつある感?
コメント数も少ないし、あまり読まれてない感じの今日の記事ですが、「今こそカント」に共感します。今こそクドカンが「不適切さの指摘の不適切さ」を表現すべき、と同じです。しかし阿部サダヲ演じる昭和のおっちゃんはともかく、政治的抑圧者の中に人類愛を見出せというのは無理筋な話。その無理筋にあえて挑戦していかないと、なんか恐ろしいことになりそうな気がするのです。
