3分で読めるNYタイムズ記事まとめ

俺的アンテナに引っかかったニューヨークタイムズの面白記事を、個人的な感想と共に日本語で紹介しています。記事翻訳ではありません!


アメリカの一般人向け銃器トレーニングが教えてくれること

今日のピックアップNYT記事:Firearms Classes Taught Me, and America, a Very Dangerous Lesson

10年前、私は銃器トレーニングを受講した。護身目的ではない。正しい銃の知識こそアメリカ社会の暴力を克服する道だと、警察も政治家も銃暴力防止団体も口を揃えて言っているので、いったい何を教えてくれるのか知りたかったのだ。

まずは良いニュースから。インストラクターたちは皆、事故防止を非常に真剣に捉えていた。ある受講生がうっかり銃口を私に向けてしまったとき、すぐに叱責が飛んだ。引き金に指をかけていなかったのに、とその受講生が反論したところ、インストラクターは本気で怒り、出禁を食らわせそうな勢いだった。

しかし、「誤って人を撃たないこと」は、カリキュラムのほんの一部に過ぎなかった。トレーニングの重点は「意図的に人を撃つ」状況についてであり、暴力の克服とは乖離した内容に、私は大きな疑問を抱くことになる。

銃器インストラクターは、人間がいかに無防備であるかを受講生に悟らせるのが仕事だという。凶事はいつでも起こりうるので、日常に潜む危険性に意識を向けるよう指導される。あるインストラクターには、銃は常に肌身離さず携帯すべき、言われた。「車から離れるときは銃を車内においていく」と言った受講生は、「車の中にいるときしか襲われないとでも?」と注意されていた。

授業では、世の中は凶暴で狂った人間に満ちている、という世界観が繰り返される。公の場で「危険そうな人物」を意識することだけでなく、都市部など危険な区域での行動についても教わる。例えば、ヒューストンのダウンタウンで真夜中に給油しなければならない、といった事態を避けるべく、ガソリンのタンクは常に半分以上満たしておくこと、ゆきずりの人と関わりあいにならないテクニックなども指導された。犯罪関連の統計は、「銃を携帯する必要性」に何の意味もなさず、「確率ではなく、結果がすべて」だと教わる。本能的に撃つべきではないと感じても撃つべきなのだと、何度も言われた。

強盗、乱射事件、テロ攻撃など、さまざまなシナリオを想定した訓練もあった。ある想定訓練では、インストラクターが「私の知人の頭を殴ろうとしている人」になり、どう対処するかを問われた。インストラクターは私に背を向けた状態だったので、私は撃たなかった。「行動を起こすに足る情報がなかった」と私は説明したが、それは「不正解」だと言われた。頭を殴られたら死ぬかもしれない、待っている時間はない、と。武器を持たない人間を背後から撃つことを奨励されるとは、夢にも思わなかった。インストラクターは、倫理的にも法的にも、そして「戦術の必然性」においても、撃つのが正解だと確信した上で指導しているのだ。

表向きのメッセージとしては、「用心深くあること」が強調される。「3秒以内に死ぬ、という状況でなかったら、引き金を引くな。100%確信がなかったら、撃つな」とは、何度も言われた。しかし、人間を取り巻く潜在的な危険について繰り返し刷り込まれるうちに、受講生のリスク評価は変わっていく。

自分でも「リスク評価の変化」を経験した。ある夜、一方通行の道を運転していたとき、逆走しているのに気づいていないらしい対向車が近づいていきた。私はスピードを落とし、窓を開けてフレンドリーに手を振ろうとした。そのとき私は、相手が銃を持っている可能性に思い至った。真夜中に、対向車が突然スピードを落として手を降ってきたら、普通どう思うか?撃たれるだろうか?多分それはないだろう。しかし「確率ではない、結果がすべて」と習ったではないか。

これが銃器トレーニングの皮肉だ。人は、護身のために銃を習う。銃を持つことで自信と安心を得ようとするわけだ。しかし、訓練を受けたがゆえに、以前よりも恐怖心が増すことになる。恐怖心を煽られた受講生は研修後すぐに銃を買いに行き、すでに銃を持っている受講生であれば、「もっと大きな銃を買わなければ」と考える者もいる。

トレーニングには、弁護士も講師として登場する。もし誰かを撃ってしまったとき、緊急通報オペレーターにどう説明するか?警察に言うべきことと言ってはならないことを指導するのが、銃器オーナーの権利保護を専門とする弁護士たちだ。授業では、「撃つ以外の選択がなかった」と強調することが、いかに重要であるかを教わった。

アメリカでは、今年(2023年5月時点)だけで200件以上の乱射事件が起きている。24歳以下の事故死の原因として、銃による死亡が交通事故を上回ったなど、人命の損失ばかりがクローズアップされるが、もうひとつの犠牲にも目を向けるべきだろう。それは、成熟した社会に必要な「公共心に基づく人との関わり」が犠牲になっている、という点だ。NRA(全米ライフル協会)は、「武装した社会は礼儀を知る社会である」と主張する。しかし、銃の携帯はアメリカ人に礼儀正しさを教えてはくれない。銃はアメリカ人に猜疑心を植え付け、他者へのリスクを顧みずに保身に走ることを良しとする。銃はけして、善き市民になる術を教えてはくれない。

俺的コメント

人混みで銃を乱射する狂人をどうするか?正解はただひとつ、銃を持つ正気の人間が狂人を撃ち殺すべし。それがアメリカンジャスティス。そもそも人混みで銃を乱射しようにも、銃にアクセスがないからできない、そんな社会を作りましょうという意見には絶対反対…な勢力が幅を利かせています。

先日、The Man from the Trainという本を読みまして、1900年代初頭のアメリカの無法地帯ぶりに驚愕しました。この時代を覚えている人たちが、銃を手放そうとしないのね、と納得。国土の広いアメリカできちんとした警察組織もなかった時代、自分の命・家族・財産は自分で守らなければならなかったと。しかしFBIができてから100年以上、いいかげん無法時代の終結宣言したらどうなのかと思いますが、銃社会の現状は30年以上前の服部くん射殺事件の頃よりもだいぶ悪くなっていて、100年前に戻りたいトランプ支持者らの耐久性をよく表しています。

やたら人なつこいアメリカ人に、人を見たら泥棒と思え、という性悪説が生活の知恵的に必要なのはわかります。しかし「人を見たら銃を持った通り魔だと思え」ってどうよ?この教えこそ銃を持った通り魔を跋扈させる世の中を作っていますよね。「丸腰の人間を後ろから撃て」に至っては、臆病者であれということでしょうか先生!これを言うとまたあの話かいな、と思われそうですが、銃器トレーニングのイントラは、ほとんどが退役軍人または引退警官の「白人男性」だそうです。んだからー、爺ちゃんたちが大好きな「子供に銃の使い方を実戦で教えるパトリオットのメル・ギブソン」的な時代はもう古典の世界なんだからよ!

日本の法律も、昭和どころか明治時代の感覚をなかなか捨てることができない、ということがあるでしょう。どこの国もシステムレベルの老害に苦労していますね。19世的な荒野の掟が今でも必要だと思っている過激な爺さんたちこそ集団自決してほしい、、、などという本音は禁句でありますので、若者にお頼み申す。選挙に行こう。



About Me

新潟出身、カナダ在住。英語 -> 日本語 クリエイティブコンテンツ周辺のお仕事を請け負っています。

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