3分で読めるNYタイムズ記事まとめ

俺的アンテナに引っかかったニューヨークタイムズの面白記事を、個人的な感想と共に日本語で紹介しています。記事翻訳ではありません!


歩くな危険:ボードレール的フラヌールの受難時代

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フランスの詩人、シャルル・ボードレールは、街を歩きながら思索に耽る都市生活者を「フラヌール(遊歩人)」と呼んだ。雑踏の中を逍遥するフラヌールは、都会の風景を吸収し、意識を万華鏡のように詩的に広げていく。フラヌールにとって、街歩きは芸術的インスピレーションの源であり、「鳥にとっての空、魚にとっての水」に匹敵する、とボードレールは記している。

15年前、いや、5年前のニューヨークシティでも、そんなフラヌールの気分になることができた。右側通行さえ守っていれば、考え事をしながら歩き回ることは可能だったし、道路を渡る度にひやりとすることもなかった。それが今では、ニューヨークの街を歩くのは死と隣り合わせの危険な行為ではないか、と悩むノイローゼ気味の人格がフラヌールに代わっている。

昨年の夏。私は3度、自転車と衝突した。あわや衝突という場面は何十回とあったが、必死のフットワークでなんとか事故を逃れてきた。パンデミックの都市封鎖以来、ドライバーたちは以前にも増して攻撃的になったように感じる。道を渡ろうとする歩行者に気を使う様子はなく、平気で横断歩道の真ん中に停止する。バイクは当たり前のように赤信号を突っ切り、自転車専用車線を脅かす。自転車もまた、専用車線や一方通行の標識を無視し、生活賃金を得るのに必死なフードデリバリーの電気自転車が、歩行者の最後の砦であるべき歩道に侵入してくる。

世界には歩行者に優しい街づくりを進める都市もあると聞くが、アメリカでは、過去数年で歩行者の死亡事故が激増している。安全に歩くことができない街は、都市生活の文化を脅かす。人間と都市の不和は、私たちの精神生活にも悪影響をもたらしている。

フリードリヒ・ニーチェは言った。「本当に価値があるのは、歩いているときに降りてきたアイデアだけである。」ショーペンハウエルやカントと同様、ニーチェは散歩を日課とし、歩きながら、思いつきを概念へと磨き上げていった。哲学的な思索に耽るとき、個人的な悩みに思いを巡らせるとき、長い散歩ほど助けになるものはない。ルートを考え、歩くというタスクを体に課すことで、我々が「思考」と呼ぶ働きが活性化する。

フラヌールにとって、街歩きは、過去と現在の時空を超えたつながりにまで昇華する。同じ道を歩いた過去の作家や哲学者に思いを馳せ、現在同じ街で活動している芸術家たちの息吹を肌に感じることができるからだ。散歩の途中に、かつての文豪たちが住んでいた建物に触れるとき、私は彼らとの宇宙的なつながりを感じる。ニューヨークの街を何時間も歩くことは、文筆家としての私の生活に必要不可欠であり、執筆中のエッセイは、30ブロック相当の散歩で外気にあててから完成させるのが常だった。

しかし、フラヌールが街歩きから精神の糧をを得るには、歩くというリズミカルな運動をあまり邪魔されずに続行できることが条件だ。乗り物という乱暴者が支配する街では、歩行者は戸外にいても囚人のような扱いを受けている。今や横断歩道の青信号は、歩行者の権利を示すものではない。凶暴な怪物との「交渉」が僅かな間だけ許可され、怪物は嫌々ながら歩行者に道を渡る機会を恵んでくれる、それが青信号の意味するところだ。

現在のニューヨークは、私の愛する作家たちが歩いた街とは違う宇宙のようだ。芸術的なインスピレーションではなく、不安と制限に満ちた街で、どんな文学が生まれるというのだろう。

自由に歩くことができない街は、自由な発想をも締め出してしまう。歩く自由を奪われたフラヌールは、魂を抜かれ機械的な反復に陥ってしまう。私は、外を歩かなくなった。歩くとしても近所の食料品店かカフェまで、それすら危険な障害物コースを辿るような緊張を強いられる。ただ街を歩くことが非常に負荷の大きい作業となり、考え事をしていてもすぐに気が散ったり、思考が空転したり、反射的な連想しか思いつかない。書きかけのエッセイのことを考えながら、狭いアパートの中を歩き回ってみたが、とりとめもなく外を歩いていたときのように、思いがけない発想が浮かぶことはなくなった。外界のエンジンの音や不協和音が大きくなるにつれ、私の内なる声は小さくなり、精神世界は乾いていく。

街歩きの最大の価値は、人間をアナログな世界に帰らせてくれることだろう。テレビ番組やらマッチングアプリやら動画の無限ループやらに絡め取られている私たちを、機械の画面から優しく引き離してくれる「外を歩く」という行為。それは眠っていた魂を呼び覚まし、自意識の再生を促す営みに他ならない。

ボードレールの詩に、背負っていた光輪を道に落とした天使の話が出てくる。馬や馬車に踏み潰されるのを恐れ、天使は落とした光輪を拾うことなくそのままにしてしまう。私たちの精神生活も、歩くには危ない道に落とされたまま、失われてしまうのだろうか。

俺的コメント

昨年の秋、博多で自転車に轢かれました。右を見て左を見てもう一度右を見ながら小路を渡ろうとしたところ、突然右手に現れた自転車と衝突し、タイヤで足を踏まれました。こういう事故が例外的なものではなく、外を歩くたびに想定すべき事態になったら、そりゃ怖いでしょう。俺が最後にNYCを歩いたのは、まさに15年前。今は、散歩が危険行為となるような怖い場所になってしまったのでしょうか。

歩行者VS乗り物、という対立の構造は、大都会に住んでいないけど、ちょっとわかります。

俺んちは田舎なので、散歩は森の中に行くことが多いです。冬になると森を突っ切るスノーモービルが出現し、とても怖いです。歩くスキーをやってる人や、犬の散歩の方がスノーモービルに中指を突き立てたりするのは、非常に残念な、よくある光景。夏の多目的トレイルでも、自転車と歩行者がいがみあい、車道では自動車と自転車がヘイトを飛ばしあい、多様性の時代とはいえ、移動スピードの多様性は本当に共存が難しい。

街中を安全に歩けなくなると、芸術家や思想家が危機に瀕するという今日の記事、面白い視点ですね。ニーチェやショーペンハウエルの故国では今、どんな街づくりをしているのでしょう。ドイツ人にとっての散歩は日本人にとっての風呂、と聞いたことがあります。ドイツの都市ではどのように歩行者を守っているのか、たいへん興味があります。

昨年の俺的体験談に戻りますと、ニューヨーク化した博多では自転車に轢かれ、新潟では都市部の寂れ方に驚愕しました。学生時代、新潟市の中心部を歩くのは本当に楽しかった。今ではゴーストタウンのようです。人の流れは車で行きやすい郊外の商業施設に集中し、街を歩く人が激減。歩行者が事故に遭う確率は非常に低いとはいえ、これはこれで悲しい都市文化の喪失を見た気がします。若き日の坂口安吾が歩いた新潟市街とは「別の宇宙」でありましょう。



About Me

新潟出身、カナダ在住。英語 -> 日本語 クリエイティブコンテンツ周辺のお仕事を請け負っています。

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