今日のピックアップNYT記事:‘Barbie’ review: Out of the Box and On the Road
俺的記事まとめ
美人で超スリムで弾丸バストのバービー人形。あり得ない体型のお人形が、フェミストのシンボルになれるのか?これが、ガールズパワー炸裂のコメディー映画「バービー」が問いかける命題だ。半世紀以上に渡り、女の子のおもちゃとして絶大な人気を得てきた一方、女性のあるべき姿を歪んだ形で伝え、毒になると批判されてきたバービー。発売以来、常にバービーが論争の対象になってきたのは、女性自身の意識の移り変わりが、この人形に反映されているからだろう。
映画は「バービーランド」のハッピーな1日から始まる。バービーたちは、人形遊びをする人間の女の子の想像力から生まれ、女の子の夢がすべてを支配する国で楽しく暮らしている。ある日突然、主人公バービー(演:マーゴット・ロビー)の足が平たくなり、ハイヒールがはけなくなってしまう。さらに、なにもかもが完璧な夢の世界で暮らしているのに、なぜか死について考えてしまい、困惑するバービー。
バービーは、自分を想像した人間の女の子を探すべく、バービーランドから「現実世界」へと旅する。ピンクのオープンカーを運転するのはバービー、助手席に座るのはケン。現実の世界にやって来たバービーは、「女性差別」を目の当たりにして狼狽する。対してケンは、「男性優位主義」を発見して大喜び。実際の社会を反転させた喜劇が笑いを誘う。
ビルボード広告に描かれた女性たちを見て、バービーは「最高裁判所」だと勘違いする。もちろん笑うべき場面だが、観客は中絶の権利を覆したロー対ウェイド判決を思い出し、「笑い事じゃない」現実を生きていることに気づくだろう。繰り出されるギャグを通じて、リアル世界の女性こそ、見えない手に操られる人形のように、箱にしまわれようとしている、とガーウィグ監督は訴える。
バービーの開発元である玩具メーカー、マテル社は、長年「現実との和解」を試みてきた。さまざまな職業をバービー人形に取り入れ、「バービーと遊ぶ女の子は、どんな職業でも夢見ることができる」と宣伝し、顔の形や目の色、体型にもバラエティを取り入れた。こうした企業努力は、商業的に報われたという。
映画の中のバービーは、戸惑いながらも現実世界を理解するようになる。この辺は、マテルとの共同制作映画なので、仕方のないことだろう。ガーウィグ監督も、現実と折り合いをつけている。母娘で人形遊びをする喜びとノスタルジアを前面に押し出し、バービーをめぐる矛盾と批判については、正面から切り込んでこない。バービーは商業主義を助長する、とティーンのキャラクターが非難する場面はあるが、結局彼女もすぐにバービーの仲間になってしまう。辛口バービー批判は、観客席にいる大人にむかって、こっそり目配せする程度のものに終わっている。
ナイキとマイケル・ジョーダンの関係を映画化したベン・アフレックの最新映画「AIR/エア」にも言えることだが、ブランドとのタイアップ映画では、手加減なしの表現は望むべくもない。こうした映画はブランドを傷つけることはできないし、視聴者も、自分たちの愛するブランドに傷をつけて欲しいと思ってはいないだろう。主導権を握っているのはマテルではなく、ガーウィグ監督であることはよくわかる映画だが、それでも監督にできることには限界がある。
ラストシーンでの可笑しくも意味深なバービーのセリフは、企業との提携という縛りがなかったら実現したはずの「バービー」を垣間見せてくれる。次の作品では、ガーウィグ監督自身の破天荒な夢を、手加減せずに表現してくれることを期待したい。
俺的コメント
「バービー」見てきました。鑑賞後にディスカッションを楽しみたい人には、エンドレスにネタを提供してくれる美味しい映画です。
何年か前に、マテルの社長がゲストスピーカーで来ていたイベントに出席しました。主力商品であるバービー人形の売り上げが落ち込み、存亡の危機に立たされたマテルは、人種や体型をアップデートした「多様性の時代のバービー」を売り出して起死回生を果たした、というお話だったと記憶しています。
フェミニストに叩かれ続けてきた会社が、フェミニスト監督と一緒に映画を作るとはねえ。マテルにしたら、「反省できる会社」として褒められるポイントなのでしょうが、監督にとってはリスクのある冒険だよね。フェミニストの敵バービーを料理するチャンス、でも開発元ブランドとのコラボでは、「容赦無くやる」ことができないわけで、そこが残念だというのが、NYTレビュー記事の結論です。
NYTレビューのコメント欄は概ね作品に対して好意的ですが、一部ババ怒りの方もいらっしゃいます。「監督の類稀な才能の無駄遣い」「映画という芸術に対する裏切り」とか。友達がガーディアンのレビューを送ってくれましたが、こちらはかなりお怒りモードです。女性は完璧じゃなくていい、というメッセージの映画なのに(超美形の)マーゴット・ロビーを起用するのはおかしい、父権社会との戦いが馴れ合い的に終わるはけしからん、という論調。
バービーブランドへの忖度により、妥協したぬるい映画になってしまっている、という評は、ちょっと残念な見方だと思います。子供の頃バービーに夢中になって、その後フェミニズムにかぶれてアンチバービーになったけど、娘が生まれたら懐かしくてまた一緒にバービーで遊んでしまう、まあそれもアリよね、という自己矛盾の許容。そこが多くの女性の共感を呼ぶところでしょう。いやいや、それではマテルの思う壺だ!と思われるかもしれません。確かにそうなんだけど、自画自賛に終わらず、自虐ネタで勝負できる企業も珍しいです。社長役をキングオブおバカ俳優のウィル・フェレルに演らせてるんですよ?その心意気を認めてあげたいじゃないですか。
「監督に目配せされた大人」にあたる俺は、これって子供映画じゃないよね、と思ったのですが、一緒に観に行った娘には、「フェミニズムとか知らない子供が見たって楽しめるよ」と言われました。なるほど、バービーとフェミニズムの確執を知らずにこの映画を見る人の方が多い、実はそれこそがポイントなのでは。バービー叩きを面白おかしくネタにしたいなら、何もマテルと一緒に映画を創ることはないのです。でも、それだとインテリにしかわからないスカした映画になってしまうわな。幅広くど真ん中を狙える映画で、人の世の矛盾を子供の目に晒すこと、それがこの映画のすごいところなのかもしれません。マテルとの提携だからこそできたことでしょう。
バービーのラストシーン。NYTのレビューによれば、この場面こそ、存分に発揮されるべきだったガーウィグ監督の真髄ということですが、ラストシーン理解できなかった、という人は多いのでは。あそこで笑っていた人たちは、何がおかしくて笑っていたの?と子供たちに聞かれて、説明できますか?あのエンディングでオッケーを出したマテルはすごい。資本主義に魂を売り飛ばした芸術家呼ばわりされるリスクを冒してこの映画を作った監督はすごい。意識高い人も低い人も楽しめる映画だけど、意識高すぎる人と低すぎる人にはウケない、そんな映画ですな。
