3分で読めるNYタイムズ記事まとめ

俺的アンテナに引っかかったニューヨークタイムズの面白記事を、個人的な感想と共に日本語で紹介しています。記事翻訳ではありません!


アメリカのキリスト教、ブランドイメージ毀損の経緯

今日のピックアップNYT記事:‘Christianity’s Got a Branding Problem”

俺的記事まとめ

宗教の衰退について研究しているピッツァー大学ザッカーマン教授によると、「(アメリカの)キリスト教はブランドイメージの問題を抱えている」という。キリスト教徒=右翼の共和党支持者、というイメージが定着してしまい、政治とは無関係にキリスト教を信じている人々の教会離れが止まらないという問題だ。カンザス州のある67歳信徒は、「教会の礼拝には、もう行きたくない。いまどきの自称クリスチャンが、この国の社会と子どもたちにしていることに、激しく怒りを感じる」と述べている。

アメリカの現在の無宗教人口の割合は、調査元によって異なるが、おおむね20パーセントから30パーセント。無宗教の割合が0パーセントから2パーセントにしか増えなかった1950年代、「共産主義=無神論」への対抗として、キリスト教は愛国心と深く結びついていた。合衆国への忠誠の誓いに「神のもとに」の一言が加えられたのは1954年、「神を信ず」 のフレーズが国の標語となったのが1956年。キリスト教徒でなければ合衆国民に非らず、という当時の価値観を反映している。

1960年代には、若者が既存の社会的価値観に疑問を唱え出し、同性愛者の権利運動、ウーマンリブ、反戦思想などが広がった。60年代の社会的テーマは、現在アメリカを分断している文化戦争の端緒となっている。その後、カウンターカルチャーへのカウンターとして、ロナルド・レーガン大統領と保守キリスト教団体が台頭、ベビーブーマー世代が歳を取るにつれ、政治観と信仰の分断が進んでいった。

1965年に高校を卒業した世代をその後30年に渡り追跡した調査によると、20代では、政治観が保守・リベラルに関わらず教会への出席率は変わらなかった。30代になると、保守派は教会に留まり、リベラル派は教会に行かなくなっている。

アメリカで「無宗教」層が本格的に増え始めたのは90年代後半から。冷戦が終わり、無宗教を自認しやすくなった。キリスト教と愛国心の結びつきは緩み、教会に行かなくても非国民扱いされなくなった(ただし、無宗教の自認に匿名を希望するケースは今でも多い)。無宗教ベビーブーマーの子供達が無宗教になるのは当然として、信心深い親に育てらた若者にも無宗教が増え、この傾向は人種や経済的背景とは関係がない。無宗教と関連するのは、マリファナ合法化その他の政治的な案件に対するリベラルな立場である。

2019年に1000人のプロテスタントを対象とした調査によると、教会でゲイの権利や中絶についての説教を聞いたことがある信者の割合は全回答者の4分の1、説教中にドナルド・トランプの名前を聞いたことがある信者は16%にすぎなかった。実際、政治的な話をしても得るところはないと感じる牧師は多い。つまり、けして説教が「右翼」だからリベラル信徒の教会離れが起こっているのではないと考えると、現在のキリスト教の「ブランドイメージ毀損」は、深刻な状態にあるといえる。

キリストの贖罪を信じているというミネソタ州のある62歳信者は、過激な右翼に乗っ取られる前の福音派教会には、コミュニティとしての暖かいつながりがあったという。聖書を学ぶ集まりが懐かしいというこの信者は、トランプ・ナショナリズムと共和党を崇拝する背教者の集まりに迫害されているような気持ちだ、と嘆いている。 

俺的コメント

この記事に引用されている信者のコメントは、NYT読者への調査結果に基づくものです。記者自身が、NYT読者という母集団はアメリカの平均的なサンプルではないと但し書きをしておりますが、実際コメント欄には「キリスト教が諸悪の根源」的な発言が見られ、「Wokeが諸悪の根源」という右翼と同じくらいの熱量を感じます。

カナダに来たばかりの頃、「キリスト教的価値観」を持つ方々の暖かさにたいへんお世話になりました。とにかく困っている人に対して優しい。留学先で右も左もわからぬ迷える子羊のようだった俺の面倒を見てくれたご家族は、実に隣人愛に満ちた人々でした。ギブアンドテイクではなく、ひたすらギブアンドギブという感じ。彼らはクリスチャンでしたが、教会には行かない人たちでした。「教会なんてね、どこそこの誰がどんな服着てたとか、サンデイベスト(日曜日に教会で着る一張羅)の自慢大会でしかないのよ」とのことでした。

対照的に、「カナダは白人の国なのに、移民が増えて嫌だこと。ああでも日本人のことは白人だと思っているから心配しないで」と、褒め言葉のつもりで言ったおばさんがいましたが、彼女は「教会に行くクリスチャン」でした。

心の広いクリスチャンほど教会には行かず、教会に行くクリスチャンはかなり偏狭。この記事の内容と合致する現象を個人的にも経験した次第です。棄教する気はないけれど教会に居場所がないと感じる人が多いことに、心を痛めている聖職者の方も多いのではないでしょうか。しかし最近では七色の旗を掲げた進歩的な教会もありますし、リブランディング努力が始まってはいるようです。

お祈りをしろと命令されるのが嫌いだったのは「赤毛のアン」でしたかね?祈りとは跪いてするものではなく、空の一番青いところを見つめて心に感じるもの、というセリフがあった気がします(うろ覚え)。イエス様はそれでいいんだよって言ってくれるのではないでしょうか。



About Me

新潟出身、カナダ在住。英語 -> 日本語 クリエイティブコンテンツ周辺のお仕事を請け負っています。

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