今日のピックアップNYT記事:Two Different Versions of “Cancel Culture”
俺的記事まとめ
アメリカ合衆国民の「言論の自由」を守る法律は、その歴史を通じて強化されてきた。ところが現在、政府による検閲を恐れずに発言できる社会があるにもかかわらず、アメリカ人の多くは言論の自由という権利の行使を恐れ、「自己検閲」を行う傾向にある。「キャンセルカルチャー」のなせる技だ。
これまでに何度も、我々は「不適切な発言」が原因で人々が失職に追い込まれる様子を目の当たりにしてきた。政府が言論の自由を抑制することはなくとも、公の場で下手なことを言うと、インターネットモブに自分の存在を「キャンセル」されてしまう怖さが、この社会にはある。ただし、キャンセルカルチャーに辟易していても、言論の自由のもと不適切な発言のすべてを許容するわけにもいかない。この葛藤をどう解決したら良いのだろう?
キャンセルカルチャーが毒になるケースの定義として、イェール大学のニコラス・クリスタキス教授は、「オヴァートン窓枠に収まる発言に対し、徒党を組んで過剰に社会的制裁を加えようとすること」としている。「オヴァートン窓」とは、政治学用語で「一般的な許容範囲」を示す言葉だ。
アメリカ社会の分断が進み、保守派のオヴァートン枠に収まる言説が、リベラル派のオヴァートン枠には収まらず、その逆も然りという状態が発生している。右派と左派の両方が、互いを「洗脳されたレイシストの傲慢なヘイト集団」であるとみなし、悪人が悪意を持って悪を広めようとしているという思い込みのもと、互いを叩き潰そうとしている。
アメリカ人は、共感力を失いつつあり、「他者の気持ちになって考える」ことが苦手になっている。しかも、政治的価値観が違う隣人を、歪んだ形で認識している。共和党支持者も民主党支持者も、互いの55%が「過激」だと考えているが、実際には両陣営とも過激派の割合は30%だという。
どうしたらキャンセルカルチャーを終わらせることができるのか。まずは、政治的に相容れない隣人のことを、「邪悪な考えを持った邪悪な人々」とする思い込みを改め、大部分の人は心の底から社会のために良かれと思って意見を述べていると考えてはどうか。
最近の2つのキャンセルカルチャー事例を、オヴァートン枠に適用してみよう。まずは、新聞漫画家スコット・アダムス氏による人種差別発言について。アダムス氏は、YouTubeで「黒人はヘイト集団。白人は極力近づかないようにすべき」と発言、彼の人気漫画シリーズ「ディルバート」は新聞ネットワークから外されることになった。これは間違いなくオヴァートン枠外の言説だろう。
もう1つは、エネルギー省が「新型コロナウィルスは中国の研究所から発生した可能性がある」と結論づけた件。この言説は過去において、有害なフェイク情報としてFacebookなどのプラットフォームでは検閲(キャンセル)されたものだ。しかし、研究所での事故は起こり得る話であり、アダムス氏の言葉とは異なり、こちらは本質的に人種差別に基づく言説ではない。
異論はすべからくキャンセルしていくという脅しを武器に、公正で共感力のある社会を築いていくことはできない。そのような社会の実現に必要なのは対話と寛容であり、意見を異にする隣人とも誠実に向き合っていくべきであろう。
俺的コメント
大学生くらいの子供がいる同年代の友人らと集まると、よく話題になるのが「子供とオヴァートン窓が一致していない問題」であります。政治的に自分らは「左寄り中道」だと思っている親世代も、大学生の子供から見れば極右という現象ですな。まあ特に子供との関係に限ったことではなく、例えば俺は「愛国心は素晴らしい」というステートメントに何の疑問も感じないのですが、それをいうと右翼認定されるということがあって、あ~マンドクセ、黙っとこ(自己検閲)となるわけです。
この記事のような、汝の敵を愛せよ的な意見に、個人的にはたいへん共感します。しかし記事コメント欄を見ると、レイシストやセクシストは話せばわかるような敵じゃないからボコボコに叩くしかない、というような意見が多々見られます。新型コロナウィルス武漢研究所流出説も、アジア人へのヘイトを助長するとして、オヴァートン枠外だと感じる人も多いようです。
被差別者の戦いは切実であり、戦いを否定するつもりは全くないのです。しかしながら、政治的な価値観が真逆の相手を叩けば叩くほど、敵は憎悪を募らせてくるわけで、戦闘的な右や左のだんな様たちは、そのへんをどう思っていらっしゃるのでしょうか。叩けば叩くほど敵が元気になるからといって、叩く手を緩めたら敵が改心するわけでもなく、穏健中道派なんてクソの役にも立たぬと言われそうですが。
しかし中道には中道の心意気というものがあります。宮沢賢治風にいうならば、
右にも負けず
左にも負けず
オヴァートン窓のシフトを受け入れつつ
いつも真ん中あたりで
右からも左からも叩かれながら
足を踏ん張ってる年寄り
さういふものに 俺はなりたい。
「話せばわかる保守中道」と「話せばわかるリベラル中道」を合わせて人口の8割以上くらいになれば、「公正で共感力のある」社会になるんじゃないかと俺は思う。だから、世の中俺みたいな人が増えればいいと思う。傲慢ですかね?
