今日のピックアップNYT記事:Laid Off in Your Living Room: The Chaos of Remote Job Cuts
俺的記事まとめ:
リストラの大嵐が吹き荒れるアメリカ。リモートで働きながらリストラにあった社員たちは、あまりにも唐突な宣告に呆然とする。たとえばある金曜日の朝、同僚から放送禁止用語に満ちたメッセージが届き、リストラにあったと報告される。急いで会社のメールをチェックしたら、自分にもレイオフ通知が来ているではないか。これまた放送禁止用語だらけの返事を、同僚に送る。「FU%#!!! 自分も首切られた!」
リモートワーク時代のリストラ宣告は容赦ない。ある日突然、会社のネットワークから締め出される。給料明細に「退職金」の記載があって、リストラにあったと気が付く。チームのオンライン会議に遅刻してしまい、上司にメールで会議の内容を尋ねたところ、解雇通知のミーティングだったことを知らされる。「自宅でリストラ宣告」の最悪なところは、まわりに誰も相談できる人がいない点だ。パソコンの画面外で会ったことのない同僚の個人的な連絡先は知らないし、上司や人事に諸手続きを相談したくとも、自宅がオフィスでは、取りあえず、途方に暮れるしかない。
アメリカでは昨年、1000以上のテクノロジー企業で16万人がリストラに合い、さらに、今年に入ってから185の企業が5700人をカットしている(ソース:Layoffs.fyi)。企業による大量のリストラがなかった時代は1970年代以前に終わっており、リストラ自体は「よくある話」だ。ただし、リストラが人々に及ぼす心理的・経済的なダメージが大きいことには変わりない。そこにリモートという要素が加わり、ただでさえ不透明な先行きの中、リストラにあった勤め人にとっては、泣きっ面に蜂な状態になっている。
人材が最大の資産、と綺麗事を言う企業は多いが、いざ不景気になれば、バッサリと人員削減。社員の生活よりも株主優先。リストラは仕方ないとしても、解雇する社員をもっと丁寧にあつかうべき、と唱える経営のエキスパートもいる。たとえば、2011年にNokiaでは、1万8千人が「1年後」に削減されると発表し、準備期間を確保している。社内外での別機会の検討、独立支援、教育プログラムの実施など、来るべきリストラを乗り切ってもらおうと社員に配慮している。Nokiaにとって、削減した人員に「すぐに仕事が見つかること」が、企業としてのひとつの成功指標なのだ。
生涯で何度かリストラに合うのが当たり前の世の中。それぞれの企業で、「どうリストラされたか」は、人々の記憶に残る。将来的に、「またあの会社で働きたい」と思ってもらえるかどうかは、リストラ時の対応にかかっているかもしれない。
俺的コメント:
俺がカナダのテクノロジー企業でリストラにあったのは2014年。その会社では17年働いていたので、リストラにあった同僚を見送る立場も何度かやっている。「リストラの日」というのは、今思うと、儀式みたいな感じではあった。まず、リストラ対象外のチームメンバーが、会議室に隔離される。その後、人事が対象者にリストラ告知・離職の手続を説明し、彼らは私物をまとめ、玄関までエスコートされ、社員証を返して帰宅する。
残されたチームメンバーは、リストラされたメンバーに対し、個人的に励ましメールを送付する。定型文:「明日は我が身だよ、何か自分にできることがあったら言って」。ショックが落ち着いたであろう頃に「リストラになったメンバーを慰めるランチ」が計画されたり、「リストラにあった会」が結成されたりする。
「リストラされる社員が同僚の視線を浴びずに社屋から出ていける気遣い」とか、「テンプレ励ましメール」とか、当時はわざとらしくてなんかイヤだったけど、ある日突然会社のネットワークから締め出されるリモートリストラに比べたら、「儀礼的リアルリストラ」のほうが、人間的で好感持てるわ。リモートでは同僚の視線なんか心配する必要もないんだろうけど、あまりにも寂しくないかい?
